(2016.8.6のメルマガの記事です)
「正しさ」は武器にならない
私は二浪して薬学部に入り、その後大学院に行ったが途中で退学した。そのため、26歳になって社会で働き始めた。
もちろん、現在でも社会人としてやっとハイハイが終わってよちよち歩きになったくらいでしかないと思っている。
薬局に勤めて現在5年ほど経過した。今は3社目の薬局である。1年くらい前まで、社会と自分がしっくりきていないと思っていた。何か自分が社会というものにうまくはまっていないように思っていたのだ。
薬局や医療業界が特殊という事情もあるが、それにしても自分というものがうまくうけいれられず、ストレスばかりが貯まっていたことを覚えている。
それがなぜ解消されたか?
ある一つの真理に辿り着いたのである。
それは「正しさ」というものは武器にならないことである。
理解はすれども受け入れられず
社会に出て、会社という組織で生きるためには周りと調和をとる必要がある。それに異論は全くない。
調和をとろうとするのだが、自分の中の譲れないものはある。
よって、組織の譲れないものと自分の譲れないものを戦わせて議論して落としどころを探るものだと思っていた。
しかし、組織というものは個人の色を受け入れることが難しい。その組織の色の人間を育てたがる。その組織の色に染めたがる。
私は倫理的・道徳的な正しさは普遍的なものだと思っていた。しかし、その「正しさ」というものは社会で武器とならないことが多かった。
ややこしいのだが、それら全てを批判しているわけでもない。組織を維持し、運営していくためには必要なことだとも思っている。私という異物が組織に混入するわけだから排除するように働くのもしょうがないのかもしれない。
私としては、それらを理解したが受け入れたくないだけだ。正しいと思うことは曲げたくないし、曲げてしまうと自分が自分でなくなってしまう。
コンピュータが発達しても科学が進歩しても、そこに人がいる。人としての正しさを見失わないように社会を生きていこうと思っている。
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