友情論

スポンサーリンク

大学時代に書いた文章を大学院時代に書き直したもの

信用するとは

これを書いたきっかけは、私が信用している人に裏切られたと感じたからであった。私は小学校の中学年くらいの頃に、人の心というものは、完全に理解できることはないのだということに気がつき愕然とした。つまり、これから先、数十年間の人生をだれの心も完全に理解することなく、そして理解されることなく生きていかなければならないという事実に直面した。それ以降、信じられると思った人はいなかった。そして、大学の学部時代、自分は一人の人を信用していた。しかし、最終的にはその人を信じられなくなった。

それがきっかけで、この友情論を書いた。「信用」というのが、この文章のテーマであった。そして、ここから今までに続く思考の日々が始まったように思う。

前置きはこれくらいにして、まず信用している人と信用していない人について考えてみたい。私の考えでは、信用するに至るためには行動の積み重ねが必要だと思っている。つまり約束を守る・借りた物を返す・時間を守るなど、このような行動が積み重なって、信用に変わるのではないかと思っている。つまり、初めて会った人は信用がゼロからスタートして徐々に信用できるようになっていく。それに加えて私は重要であると、捉えている事柄(主に道徳であるが)が存在する。その重要と捉えた事柄に反した行動を相手が行うと、他に素晴らしいところをもっていたとしても信用できなくなってしまう。つまり、どんな要素をもっていたとしても、ゼロをかけてしまって、全てがゼロになる。

いろいろな人の話を聞いてみると、基本的にみんな信用できるという人もいた。もちろんあまりにもひどい人は違うだろうが。この考えの人は、最初から信用できる状態であり裏切られたりすると信用が下がっていくようである。減点方式というわけだ。下がっていくばかりではなく、助けられたりすると加点されるという人もいた。最初から信用できない人はいないだろうと思うのか、行動を積み上げていき信用するにいたると思うのか、という2種類のスタンスがあるようだ。

また第一印象や外見も関係している。その人と自分が、合うかどうか。今、その人と話しているということがその人を信用しているという証拠になる。ただし、信用しているから仲がよくて親友であるということは違うようである。親友の詳しい話は後述するが、信用とは仕事のことのみであったり、ある分野だけであったり、かなり広義の意味を持っている。よって信用しているから親友であるという図式は成り立たない。また私自身は、これを書いた頃、あまり意識していなかったが、信用と信頼という言葉でもまたニュアンスが違うようだ。

時間の影響

時間が経つとさまざまなことが起きる。楽しいことや悲しいこと、そして人間関係にも多くの変化が生まれる。時間という要因も信用するということを考えるのに重要であるのは言うまでもない。

話を聞いていると、中学・高校の友達と大学の友達はどこか違うという意見をよく耳にした。ほとんどが大学の友達との関係は薄いという意見である。これは、時間というものが影響しているのではないかと考えた。

中学・高校の時代は自分たちの手の届く範囲が狭かったはずだ。学校に通う距離+αぐらいが一般的であるだろう。それに、学校が毎日あるために時間的な拘束も多く、毎日が勉強と部活で過ぎていく。しかしその反面、友達と一緒にいる時間が長く密接な関係が築けるのは間違いない。一方、大学は授業・部活に加えバイトを始めたり、一人暮らし・金銭的余裕など、これまでと比較するとかなり自由に行動できる。そのため友達と一緒にいる時間が減っている人が多いと考えられる。つまり、一緒にいる時間が長ければ長いほど、友人との関係は深くなる。ということは、信用するということにつながる。

高校を卒業すると、たいていの友達は顔を合わせることもなくなり今までよりも会うのが困難な状態になる。それでも連絡を取り合っている人がいるだろう。離れていても自然に連絡を取り合う。このような友達を親友とみなす。これは何人かの人が同じようなことを言っていた。間違いではないような気がする。だから、大学には親友と呼べるような人はまだいないという人もいた。 またある人は、大学では自分が高校の時よりも成長しているので昔とは違った友達関係を築いているのではないかという意見も聞かせてくれた。この意見も興味深い。時間という要因を、違う角度から見るヒントになる。

相手との接触の時間に加え、自分が成長しているという意味での時間、これらが複雑に混じり合って仲の良い友達というものが形成されるのではないだろうか。

相談をする相手

相談をする人は少なからず信用している人であるだろうし、相談をされた場合は相手から信用されていると思うであろう。ここにも「信用」についてのヒントが隠されていると思う。

私は基本的に人に相談することはなかった。それはなぜかというと、前述したように人を信用していないため、自分の話を100%真剣に聞いてくれると思っていなかったためである。それに加えて、相談を持ちかけられた相手がどう思うかが気になっていた。相談をした時に、相手の体調が良くない、または忙しい場合、相手に迷惑がかかるのではないかと考えている。だが、もし、自分がその相談をしようとしている人に相談を持ちかけられたら喜んで相談に乗るだろう。ならば、相手も相談に応じてくれるだろうと思うようにもなった。確かに気を許している人に相談を持ちかけられたら断るはずがない。話を聞いた女の子の中には、仲のよい友達が違う人に相談していたら嫉妬してしまうという人もいた。

ハードルの上下

怒られたり失敗したりするとたいていの人は落ち込む。落ち込むと自分の話を聞いてもらいたい、ほかの人に助けてもらいたい、という意識が働く場合が多い。このとき自分の、相手を信用するという基準をハードルに例えると、そのハードルは低くなっていて飛びやすくなっていると思う。つまり、自分の精神状態によってハードルの高さが変わるのではないかということである。普段なら信用に足る人物ではないが、弱っている時にはハードルを飛び越えてしまう。思い当たる人も多いのではないか。

このことを考えると注意しなければならないことがある。それは、自分の精神状態が回復してハードルの高さが元に戻った時、その人物の信用度も一緒に上がってしまう可能性があるということである。もう一度、その友人に自分の正常な状態のハードルを飛んでもらうことはしなくなるのである。

自分が弱っている時、困っている時に助けてくれる人は素晴らしい人物である。しかし、精神状態が落ち着いてから、もう一度その人物を見極め、自分のハードルと見比べてみることも重要であると考える。

信用と信頼とは

ここまで信用というものを述べてきたが、少しまとめる意味で信用と信頼の違いを考えてみよう。おそらく、信用と信頼は違うものであるということは共通の認識であるように思う。では、どこが違うのだろうか。

私の経験則でいうと、「信用」はその人の技術や能力、さらには一つ一つの行動などに用いることが多いと考えている。仕事をまかせたり、秘密を話す時にその人の口のかたさだったりに用いるだろう。一方、「信頼」はその人全てをさす気がする。その人の個別の何かではなく、その人をトータルで信じること、それが「信頼」であるように思う。極端に言うと、裏切られてもよい、一蓮托生であるといった思いが込められているのかもしれない。

では、信頼関係とはどのようにして築けるのだろうか。それは、相手をわかろうとすることだと考える。相手が言ったことを一生懸命に聞き、相手の表情を見逃さないようにし、相手の奥底にあるものまでも見ようとすること。これが相手をわかろうとすることである。

自分の領域

友達が悩んだり落ち込んだりしている場面に遭遇することは誰もがあるだろう。そのような時にどうやって声をかけたら良いのか、もしくはどこまで助けてあげれば良いのか、あるいは声をかけて良いのかどうか悩むところである。

私は困っている時に声をかけてくれたり手伝ってくれたりと、行動してくれる人が信頼(前述したような意味で、今後は信用と信頼を区別していく)できる人であり親友になる可能性があるのかと思っていた。つまり、タイミングを見計らって自分の領域に入ってきてくれるような人である。領域とは、普段は入ってきてほしくない、そして入らせない自分だけの空間である。もっと詳しく言うと、自分の心を家に例えてみてほしい。普段、友達や家族などと話している時は家の鍵を開けて人を招き入れる。仲がよければいろいろな場所まで案内するだろう。しかしどんなに仲がよくても見せることのできない部屋があると思う。それを私は自分の領域と呼ぶ。

話を戻すと、私は悩んだりしている時はその領域に少し入ってきてほしいと思っていた。しかし入るところがなかったようだ。その人が普段一人で何でもこなしてしまうような場合、弱いところや悩んでいるところを見せてくれない場合。このようなときはその人の領域に入ろうとしても入れないだろう。この時入ろうとしてくれた人たちは間違いなく行動をしていた。一見、行動をしていないように見えるが、入る場所を探そうとしてくれていたのだ。その点で、私は間違った見方を周りの人にしていた。

たしかに、入ろうにも入れない状態で無理やり領域に入ったりするとおせっかいなどと思われてしまう可能性もある。そうすると、効果的に助けてほしいというサインを出したほうが良い気がする。そんな中でも、うまく自分の領域に入り込もうとしてくれる人、ドアをノックしてくれる人、そのような人を私は信頼する気がするが、みなさんはどうだろうか。

等身大の自分

人はみな自分を良く見せようと思う。そして弱いところはなるべく見せたくない。当たり前の心理だと思う。等身大の自分は見せたくないという人が多いだろう。

相談するということは、ある意味弱みを見せることだ。かっこ悪い自分を見せることになる。自分の能力の限界を認め相手に助けを求める場合が一般的だろうから、非常に情けなく恥ずかしい思いをもつかもしれない。しかしその行為自体がかっこ悪いとは限らない。

このように考えると、相談できる人というのは等身大の自分が見せられる人なのだろう。長い付き合いによって良い面も悪い面も見られている。その人の前では背伸びをせずにいることができる。そのような人を相談相手に選んでいるはずだ。

親友とは

親友と友達。友達の上に親友が位置する。それは間違いないだろう。親友と友達の違いは何だろう。どこからが親友になるのだろうか。

相手が自分に隠さずに話してくれている。等身大の自分を見せてくれていて、信頼してくれていると感じられる。だから自分も信頼できて親友だと思える。親友関係とは、双方が親友だと思えている状態。この意見が多数を占めた。やはり相手がどう思っているか不安な状態だと親友だとは言いにくいようである。自分が親友だと思っていたら相手も思っているはずだという意見もあった。たしかに、自分がそのように思えているのなら相手も思っていると考えてもおかしくはない。

信頼できたら親友であるということはまちがいであった。しかし親友であれば信頼できるだろう。ということは信頼できて、さらに何かが加われば親友になる可能性が高い。一緒にいて楽である・楽しい・長い間、一緒にいたから・なかなか会えなくなっても自然に連絡が取り合える・つらい事を乗り越えた、など人それぞれ加わっている物は様々だ。これを見ていると運の要素が多いように思える。何人かの人たちが、「友達は自分の意思で増やせて、増やしたいもの。親友は自分の意思では増やせずに、勝手に増えるもの。」と言っていた。

私の今の解釈では、親友とは信用を積み重ね長い時間を共に過ごしお互いの気持ちが分かりあえている関係だと思っている。みなさんの親友とはどんな人だろうか。

私の今の友情論

毎日、携帯電話でメールをして、それで仲の良いことを確認しあう。相手からの限られた情報の中から、必死に自分を安心させられる内容を探し出す。そんなものでしかつながりを感じられない間柄。表面上は仲良くしていて、陰では悪口を言う。自分がよければそれでよい、自分がよい思いをするためには相手を傷つけようが仕方がない。そうしないと自分が被害にあう。自分が、自分が、自分が・・・。見ていてうんざりしていた。

真の人付き合いとは、思いやりのある関係だと思う。そんな考えは今時流行らないし、通用しないと考えている方もいるだろう。しかし、困っている時に普段一緒にいない人が、一生懸命あなたのことを考えてくれたことはないだろうか。そこに利害関係はあっただろうか。その人は普段一緒にいないから友達ではないのだろうか。もっと周りに目を向けてみてほしい。あなたのことを一生懸命気にしてくれている人がきっといるはずだ。

あなたは親友とよべる人がいますか?もし、いるのならその親友はどんな人ですか?あなたはだれかに親友だと言われていると思いますか?

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。